初夏の風が薫る

名前を考え始めたのは、春がようやく輪郭を持ち始めた4月のことでした。ちょっと、遅めのスタート、ぎりぎりね、と笑いながらホワイトボードに書き記したのを覚えています。

名前の記録

はじまり:2025年6月12日、生まれる(予定) これは、まだ未来の話です。 君がこの世に姿をあらわす日を待ちながら、空気を感じ、木々の葉の匂いを吸い込み、ゆっくりと名前について考えていました。 雨かもしれないし、晴れているかもしれない。 まだ出会っていない君に、空気ごと名前を贈りたいと思ったのです。

最初に思いついたのは、こんな名前でした。 歩(あゆむ・のこのこ):のこのこと歩く姿が頭に浮かびました。 暴風(ぼうふう):なぜか「破天荒もアリかも」と思ってしまった夜がありました。 風(かぜ):あまりにシンプル。でも、それがよかったりもしました。 書いては消し、音を口にしては白版に戻し…… 言葉というより手触りを探していたのかもしれません。 緑が萌え始める静かな遊歩道を歩きながら、名前の候補をぽつりぽつりと口にしてみたり、 ベンチに座って情報カードを開き、chat GPTで古典のことばを調べてみたり。 時には早起きして、会社に行く前に朝の光の中を歩いた日もありました。 井の頭公園の朝は早く、ランニングをしている人、ラジオ体操をしている人、葉を掃いている人… それぞれが黙々と動いていて、その静かな活気の中に身を置いていると、 言葉よりもずっと深い整えられた時間に包まれているような気がしました。 人の少ない公園の空気は澄んでいて、季節の気配がどこまでも染みこんでいました。

そして今、令和7年6月2日。 梅雨はまだ来ていません。 からりとして、心地よい風が吹いています。 木々は青々と茂り、まだ6月にもなっていないのに、季節の“満ちかけ”を感じさせる空気です。この気候の記憶も、どこかでこの名前に重ねて残しておきたいと思いました。

第一章:「音・香り・触感」から名づけの入口へ

感じること、実感があること、体験と体感があること。それらを重視して、私たちは君の名前を考えました。 名前というのは、書かれているだけでは意味を持たない。誰かに呼ばれて、声に出され、ふと立ち止まって思い出されることで、初めて体温を帯びるものです。私たちは、記号としての名前ではなく、触れるように、感じられる名前を求めていました。 刹那的であること。それは、瞬間に意味があるということ。終わってしまうからこそ、ひとときの重みを大切にするということ。一陣の風が通り過ぎたときの肌の感覚。音が消えたあとの静寂。香りがふっと残って消える、その余韻。どれも“すぐに過ぎ去ってしまう”ものばかり。 けれど、それらは確かに“いた”と感じさせてくれる。だからこそ、私たちは音を聞き、香りを嗅ぎ、手のひらで触れ。そのうえで、どこか無常に通底する感覚もこの名前の底に静かに流しておきたいと思ったのです。 あらゆるものが過ぎていくという感覚。この世界の美しさが、永遠ではなく、移ろいの中にあるということ。それを儚さではなく、しなやかな強さとして抱きしめる力。

音について

名前を考え始めたとき、最初に浮かんだのは音でした。 風の音、羽の音、水面ーみなもーの静かなきらめき。 これらはすべて、静かなのに、ちゃんと届く。 耳を澄ませないと聞こえないけど、確かに心に触れる音たち。 「うるさくはないのに、存在感がある」――君もそんな人になるといいなと思って。 音には、姿がない。 でも、風や雨が運ぶその音は、記憶の中では色や形さえ持ってしまう。 たとえば雨音。 たとえば、どこかで小さくきしむ木の床。 それらは、私たちの時間の中で、確かに存在の輪郭を残します。 物質的な価値では測れないような、感覚や気配、余韻といったもの。 それこそが、名前に宿るべき“実在感”だと感じたのです。 何かを「所有する」ことではなく、何かとの「つながりを感じる」ことになるように。

匂いについて

そして、もうひとつ大事にしたのが「匂い」。 匂いは目に見えないし、音よりも残り方が微妙で、曖昧で、でも強い。 雨が降り始めたときの土の匂い。 朝に開いた窓から入ってくる、新緑の香り。 どこからともなく漂う花の香り。 それらは、人の感情や記憶をふいに開いてしまう。 香りは押しつけがましくないけれど、確かに空間の印象を変えてしまう。 そういう“静かな力”を持っているからこそ、名づけのヒントとして、私たちはこの感覚を大事にしたのです。

触感について

さらに、忘れてはいけないのが触感です。 AIにはない、そこにあるという実感。 誰かと手をつないだときのぬくもり、雨上がりの木の葉にふれたときのしっとりとした冷たさ、布団の中で丸まったときの安心感。 それは目に見えず、言葉にするのも難しいけれど、人が「今ここにいる」と感じる根っこにある感覚です。 何かを感じたくて、手を伸ばす。 何かがいると信じて、そっと指先でふれる。 君がこの世界に来たとき、その体温を、手のひらで感じられること。 それが私たちにとって、どんなに大きな出来事になるか、今はまだ君には想像もできないでしょう。 風が通ったあとに、ふと残るやさしい揺らぎ。 そこにいた証。そこにある実感。 そんな気配を感じる瞬間がモティーフのうちの一つです。

引用ー風とか、かおるとか、非物質的なものを名前にしたい。所有することが不可能な、唯一実感的な、体感的な記憶として体験するものことを名前にしたい。手中に収めたものの優劣で比較をするような名前にはしたく無い。情景がそれぞれ、ありありと浮かぶような名前にしたい。固定的で、用例が決まっていて、境界線がはっきりとしている名前にはしたく無い。世界との関係を感じさせる名前にしたい。(当時メモより)
引用― 証明 SUPER BEAVER 作詞:柳沢亮太 作曲:柳沢亮太 発売日:2015/04/01

心から 心の奥まで わかるのは自分しかいない
この目に この顔が 映り込むことは無いけれど
あなたには 心の奥まで 潜り込んできて欲しい
その目に 形ない 嘘は映らないから

僕もあなたも 一人なんだろう
産まれて死ぬまで 一人なんだろう
だから独りきりじゃ 成り立たないんだろう
解りあって 分かちあって 抱きしめあって
命は初めて輝く

第二章:「季節」に耳をすませて

誕生日、6月。この時期は「小満」と「芒種」の間。自然の流れに目を凝らす人だけが気づける、“満ち始め”と“植え始め”の両方が存在する、とても静かで豊かな時間です。 四面道の紫陽花が、気づかないうちに色づき始め、まだ青くて固い梅の実が、少しずつ重みを増している。子どもたちの声が風に混ざって遠くから聞こえてくる。夕方には風が涼しくなって、ひとつの季節が静かに次の季節を準備している。 それは「始まり」ではなく、「続いている」という感覚でした。 「何かが始まる前の、静かな準備」―― 君は、そんな時期に生まれてきます。 まるでこの世界が、そっと君を迎えるために、すべての音や色や香りを静かに整えている”かのように思えたのです。

第三章:「古典」に相談してみる

古典の世界に目を向けると、静けさを美ととらえる言葉がたくさんあります。

王維『山居秋暝』の 「明月松間照 清泉石上流」
西行の 「心なき身にも あはれは知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮」
『枕草子』の 「秋は夕暮れ。風の音、虫のねなど、はたいふべきにあらず。」

どの言葉も、誰かが「今、この空気を残したい」と願った瞬間の記録です。 ただ、「風が吹いた」「羽が鳴った」「水が流れた」。 その出来事が、美しいと思える感受性を、名前の中に託したいと思いました。

余談

私は思い出していました。実は私は最初、秋の歌ばかり探していたことを。雨が降り続くこと、空気がしっとりしていること――どこか物寂しく、情緒深い印象があって、「ああ、これは秋の季節なんだな」と思い込んでいたのです。 六月は初夏。草木は旺盛に葉を茂らせ、湿度を含んだ風が吹き、空は厚い雲に覆われながらも、ときおり強い光が差し込みます。なぜ六月を“秋”だと思い込んでいたのか、自分でもよくわかりません。でも、“秋って美しいよね”という感覚だけは、ずっと胸にありました。 その静けさ、余韻、ひとつ季節が終わる手前の慎ましさ。それらが、梅雨時の気配とどこかで重なって感じられたのかもしれません。私はむしろ六月という季節の輪郭に惹かれました。たしかに季節は“初夏”なのに、感覚の中には“秋”のような余韻が漂う。静かで、湿っていて、すこし物悲しくて――けれど、決して後ろ向きではない、しっとりとした前向き。六月は、静かに進行する季節。

第四章:「候補たちのこと」

候補は、数十、数百と生まれました。私たちはその中で何度も立ち止まり、戻り、また選び直しました。

  • 澪(みお):水脈、見えないけれど命を運ぶ道
  • 悠風(ゆうふう):ゆったりとした風
  • 澄鳴(すみな):静寂の中で響く一声
  • 小満(こみつ):少しずつ満ちていく命
  • 羽音(はおと):やさしい羽ばたき
  • 風音(かざね):風のささやき
  • 颯真(そうま):さっと吹く風とまっすぐな心
  • 青苔(せいたい):夕光に照らされた苔のような静けさ

どれも美しく、選べば愛せる名前ばかり。でも、“何も語らなくても伝わる名前”を探し続けました。

第五章:「薫」という名に決まるまで

風、香り、余韻、気配、そして“非物質的なつながり”。そうした“日本語的な再構成”の中から、最終的に私たちが選んだ名前が 薫(かおる) でした。

藤原定家が『続拾遺和歌集』に詠んだ和歌、「風薫る 木の下道は過ぎやらで 花にぞ暮らす 志賀の山越え」。
この一首の中で、「風薫る」はまさに初夏の南風が、花の香りを運びながら木陰を通り抜けていく風情を描いています。
「風薫る」:嗅覚と季節感が一行目で立ち上がる。
「木の下道は過ぎやらで」:香に誘われて歩みを止めてしまう、というやわらかな誘惑。
「花にぞ暮らす」:花に包まれ、そのまま日が暮れてしまうという贅沢な静けさ。
「志賀の山越え」:旅という動きの中での静止、その対比がさらに情緒を深めます。

この和歌のように、「薫」という字が運んでくれるのは、所有できないもの、測れないもの、でもたしかに“感じられるもの”です。

そもそも日本語は、外来文化の影響を受けつつ、自国文化に即して再構成されてきた言語です。5世紀に漢字が伝来し、平安期にはかな文字が生まれ、文学表現が発達。明治以降は西洋語を吸収し、現代ではネット文化によって表現が急速に変化しています。 「日本語であること」とは、決して固定された形式を守ることではなく、常に揺らぎながら、文脈と空気によって意味を伝える、文化的実践そのもの。

「薫風(くんぷう)」という言葉は、もともとは漢詩に見られる中国の語であり、 南からそよそよと吹く穏やかな夏の風を意味していました。しかし日本語の中に取り込まれ、平安から鎌倉を経て「香りを運ぶ風」として定着していく中で、その言葉は意味の重心を少しずつずらしながら“日本語らしさ”を纏うようになりました。

「薫風」は漢語でありながら、 日本人の感性――季節を感じる繊細な嗅覚や、“見えないものに心を寄せる”文化的態度のなかで、 独自に練成された言葉なのです。 「薫」という文字自体も、 漢語的な“抽象的価値”と、日本語的な“身体を通した実感”のあいだで揺らぎながら存在しています。

第六章:「呼びかけ」の響き

「かおる」 この名前を声に出すとき、呼ぶ人の声も少しやわらかくなります。語尾が広がるから、怒りやすい名前ではない。「おい、薫!」ではなく、「ねえ、薫…」そんなふうに呼ばれる音の流れが、この名前にはあります。 言葉には音の表情があり、名前はその最小単位の“音楽”なのかもしれません。「薫」という響きには、風がすれ違うときの、あの一瞬のざわめきがあります。 柔らかく、通り過ぎて、けれどどこかに痕跡を残すような。 漢字が持つ意味だけではなく、声に乗せたときの、口の動き、息の抜け、響きの残り――そのすべてが、名前としての「薫」を完成させている。 誰かに呼ばれるたび、それは“音”として、風のように君を包み、君自身がその響きをどう生きていくかで、名前の中身が少しずつ育っていくのだと思います。

第七章:「世界との関係」

「薫」という名前は、自分のためだけのものではありません。 香りは、自分では感じづらく、誰かに届いて、初めて意味を持ちます。名前にこめたのは、そういう“他者との関係性”です。 自分を中心に置くのではなく、世界に触れられた時に、自分の在り方が立ち上がる。 まるで風が通り抜けたあとに、草木が揺れるように。 誰かのそばにいて、初めて動き出すやさしさを持っていてほしい。 それがこの名前に込めた、静かな願いです。この名前には、境界を越えて共鳴するという希望が込められています。固定された意味を持たず、いつも少し揺らぎながら、その場に応じて新しく意味を立ち上げていく。 君という存在が、誰かとの“あいだ”で生まれてくるものだとすれば、名前もまた、その関係の中で毎日かすかに形を変えていくはず。 「薫」は、誰かの近くにいるときにこそ立ち上がる名前です。自分だけに閉じることなく、空気と光と対話するように、その日、その場にふさわしい香りとして、存在してほしい。

第八章:「“薫”のこれから」

私たちは、言語を通しては、全部を語りきることはできません。けれど、“名前”というたった一文字に、私たちはできるだけ多くの願いを込めました。

  • 君の心が、やさしく澄んでいてほしい
  • 静かな時間の価値を知る人になってほしい
  • 誰かに寄り添うことが、自然にできる人になってほしい
  • 自分の輪郭を、自分で描いていける人であってほしい
  • 季節の変化を肌で感じられる感性を持っていてほしい
  • 目に見えないものを、大切にできる心を持っていてほしい
  • 人の話に耳を傾け、自分の言葉で返せる人であってほしい
  • 無理に速く進まなくても、自分のペースを信じていいと知っていてほしい
  • 誰かの横に、静かに寄り添える優しさを持っていてほしい
  • 一度しかない瞬間を、惜しまず味わえる人であってほしい

その願いを自身の歩みで自分なりに結実させてくれることを、楽しみにしています。きっと、名前は“渡された瞬間”よりも、“背負って生きた時間”で意味を持ち始めます。 大人になるにつれて、誰かに名前の由来を聞かれる場面があるでしょう。そのとき君が、照れずに話せるように。できれば「自分の名前が好きだ」と、少しでも思えるように。この冊子が、その助けになればいいと思っています。

おわりに:

静かに、でも確かに薫る。 君という名前が、誰かの記憶にふと残るような、そんな存在になりますように。 そしてなにより、君が「自分で好きになれる名前」に育てていけますように。 いつか君が、公園で名前を呼ばれて振り返る日。教室で名前を言う瞬間に小さく照れる日。そのたび、私たちがこの名前に込めた風や香りや触感が、君の周りに静かに広がってゆくことを願っています。

(参考)改元に際しての内閣総理大臣談話より

本日、元号を改める政令を閣議決定いたしました。新しい元号は「令和」であります。 これは、万葉集にある「初春の令月にして 気淑く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫す」との文言から引用したものであります。そして、この「令和」には、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ、という意味が込められております…

出展:続拾遺和歌集 (歌番68)
詠み人:藤原良教(1210~1287)

風薫る 木の下道は過ぎやらで 花にぞ暮らす 志賀の山越え

意:かぐわしい風が吹きわたる木陰の小径。あまりの美しさに通り過ぎることができず、志賀の山越えをするはずが、花に囲まれて一日を終えてしまったのだ。